(お願いだから、YESと言ってくれ)
そう心の中で呟きながら、チェギョンを揺り起こすシン。
シンの中でも、結論は一瞬ごとに揺れていた。
皇太子という立場で言えば、結論はひとつ。
後継者を望まれる立場だからこそ、悩むまでもない。
だから、悩むのはシン個人の部分。
いや、チェギョンが引き出した“人間”の部分と言ってもいいかもしれない。
シンの“男”としての本能は、ひとつしか望まない。
シンの長年の願いが叶ってチェギョンを妃に迎えることが出来たように、男としてチェギョンの全てが欲しいと思うのは当たり前の感情だろう。
でも、氷のプリンスと呼ばれたシンに生きた血を通わせたチェギョンが相手だからこそ、結論が揺れる。
緊張が解けて居眠りをしてしまうほど疲れ切っているチェギョンに、これ以上無理をさせたくない。
何より、大切な存在だからこそ、こんな人の目や耳がある場所で抱きたくない。
ふたりだけの時間として、大切に過ごしたい。
そう思うからこそ、シンの心の中で振り子のように決断も揺れ動く。
どちらの意見にYESと言ってほしいのか、自分でもよく分からなくなるぐらいに。
「・・・シ・ン・・君?」
重た気に瞼を持ち上げたチェギョンが、シンを捉えて眠そうな声を発した。
と、同時に。
「あ・・・」
チェギョンが恥ずかしそうに、お腹を押さえて赤くなった。
チェギョンのお腹から、何とも可愛らしい音が聞こえて来たから。
「あはは・・・」
チェギョンが何とも乾いた笑いを浮かべても、シンは動じない。
「お腹の音ぐらいで、どうこう思わないよ。大口開けて食べているところも、よだれたらして寝ているところも見てるから」
「いやぁ~。例え見られてても、イヤなものはイヤよ」
続けられた小さな声に、シンの頬は何ともだらしなく緩んだ。
「結婚して早々からそんな姿見られるなんて、イヤじゃない。例え取り繕えないぐらいみっともない姿を見られてたって、やっぱり、可愛く見られたいもん」
ブチブチとそう呟くチェギョンが、シンにとっては可愛いとしか表現しようがない。
「どんなチェギョンだって、可愛いよ」
その場限りの言葉ではなく、シンの本音。
「こんなことしたくなるぐらいに、な」
と言うが早いか、唇を重ねた。
最初は、うっとりとしたようにその唇を受けていたチェギョンだったけれども。
「シ、シン君!お姉さんたち・・・」
自分の状況に気付いたのか、慌てたようにシンの肩を押して離れさせようとする。
「気にするな」
「気にするわよ」
「気にしたって仕方ないだろ。彼女たちはこれからずっと傍にいるんだから、このぐらいのことには慣れてもらわないとな」
「え?」
それは、チェ尚宮や女官たちがいても構わずにキスをするということなのだろうか。
そんなチェギョンの戸惑いが、言葉にせずとも伝わったのかシンはニッコリと笑った。
「当然」
「・・・」
「外で、公務の時にキスして怒られるならともかく、俺たちの“家”で、好きな時に自分の妻にキスして何が悪い」
キッパリと言い切られてしまい、チェギョンは何も言えなかった。
何よりも、
「ふっ、俺が東宮殿を“家”と表現するようになるなんてな。チェギョンと再会出来なかったら、チェギョンと結婚しなかったら、絶対に言わなかっただろうな」
と言われてしまったら、もっと何も言えなくなってしまった。
「さあ、チェギョンのお腹の虫がこれ以上自己主張しないように、とりあえず食べよう」
チェ尚宮に合図をして酒や膳を運び入れさせると、固めの杯を交わし食事を始めた。
「シン君、これ美味しいよ」
「食事は逃げないから、慌てずにゆっくりと食べろ」
「だって~」
「朝から殆ど食べてないだろうから、お腹が空いてるって分かるけど。急に大量に食べたら、体がビックリするだろうが」
「美味しいんだもん」
全種類制覇する気なのか、色とりどりに並べられたお皿を次々に指し、女官に食べさせてもらうチェギョン。
さっきまでの緊張のかけらも見当たらない。
(ま、これがチェギョンだよな)
震えるぐらい緊張してしまうチェギョンも可愛らしかったけれども、これはこれでチェギョンらしくて安心出来てしまう。
(どんなチェギョンでも、結局は俺を惹き付けるんだよな。はぁ、自分で言うのもなんだけど、惚れてるよな、俺)
当たり前と言えば当たり前のことを、今さらに確認してしまうシン。
でも、それが不愉快どころか心を温かくしてくれる。
「チェギョン」
「ん?」
スライスされた肉に嬉しそうにかぶりつこうとしていたチェギョンは、何とも間抜けな表情を晒すことになってしまったのだけれども、それでも口を動かすことをやめる気配はない。
モグモグと口を動かし飲み込むと、小首を傾げた。
「なあに?」
「ありがとう、俺と結婚してくれて」
一瞬、何を言われているのか分からないとばかりに瞬きを繰り返したけれども、花が咲くように満面の笑みを浮かべた。
「それは、あたしもよ。ありがとう、あたしと結婚してくれて。それから、ずっとあたしを忘れないでいてくれて」
そう言うと、居住まいを正し可愛らしくチョコンと頭を下げた。
「これから、宜しくお願いします」
・・・・・ ☆ ☆ ☆ ・・・・・
チェギョンの何気ない仕草のひとつひとつに心を奪われてしまったシンは、相談したいことがあるのにそれを口にすることが出来なかった。
口を開こうとチェギョンを見ると、つい目を奪われてしまうから。
何より、美味しそうに、楽しそうに食べているチェギョンにそれを中断させようとは思わなかったから。
だから、チェギョンが満足そうに最後の菓子を食べ終わるのを待って、チェ尚宮たちに目だけで合図をして下がってもらった。
「チェギョン」
「ん?」
「相談」
「相談?」
いつもだったら、シンが相談するなんて考えられないとか言ってしまうところだけれども、この数日、そして今日のたくさん気遣ってくれるシンを見て来たから、素直に小首を傾げてシンの言葉を待った。
「・・・なんて言えばいいんだ、こういう時」
言いたいことは決まっているのだけれども、どんなふうに、どんな言葉で伝えたらいいのかよく分からない。
チェギョンが大切だからこそ、伝える言葉ひとつに戸惑ってしまう。
「言いにくいこと?」
「まあ、そうだな」
「もしかして・・・、この後のこと?」
チェギョンが切っ掛けのひと言をくれたから、シンはひとつ静かに息を吐き出すと、頷いてそれを認めた。
「ああ。大人たちの間で、意見が分かれたんだ」
「?」
「さっき、固めの杯を交わしただろう?」
「うん」
「略式でするなら、同牢の礼はあれで終わり。でも、皇太后陛下は早くひ孫を抱きたいから、そのまま本来の同牢の礼にって仰ってる。でも、俺たちがまだ未成年であることから、略式だけでいいって言う意見もある。どうするかは、自分たちで決めろって」
「・・・」
数日前、思い切り身の置き所に困る講義を受けているから、本来の同牢の礼で何をするかは分かっている。
「シン君は、どう思っているの?」
「正直、迷ってる」
「・・・」
「誤解しないでくれよ。やっと、チェギョンと結婚出来たんだ。このままチェギョンの全てが欲しいと思ってる。でも・・・」
「でも?」
「チェギョン、疲れてるだろう?このまま、儀式のひとつだからって流れでいくのは違う気がするんだ。チェギョンが大切だからこそ、流れじゃなくて大切にチェギョンを抱きたいと思うし」
臆面も無く言われてしまい、チェギョンの方が恥ずかしそうに顔を赤らめている。
「何より」
廊下に控えているであろう女官たちには聞こえないように、少し声を落とした。
「今ここで、本来の同牢の礼にしようとしたら、廊下に女官たちが控えていることになる」
「え!?」
儀式の無いようそのものの講義を受けていても、そこまでは聞かされていなかったらしい。
信じられないとばかりに、目を見開くチェギョン。
「昔の名残だ。本来相手を務める女性と勝手に入れ替わっていたりしないか、欲しいものを強請ったりしていないか、最悪は暗殺を企てていないかって、女官たちがチェックするために聞き耳を立てる」
「・・・」
「昔は、実際に部屋の中にいて監視したり、手を貸したりしたらしいけど」
「手を貸すって?」
「男がその気にならなきゃ、コトは成就しないだろ?だから・・・」
何を言わせるんだとばかりに軽くチェギョンを睨んだけれども、チェギョンはその前に恥ずかしさの余り視線を逸らしていた。
「さっき言ったとおり、それは昔の名残で。でも、女官たちが廊下にいることは変わらない。そんな中でって、イヤだろ?」
コクコクと頷くチェギョンに、シンのフッと笑った。
「俺だってイヤだよ。キスぐらいなら見られてもいいけど、さすがにな・・・。だから、俺から出来る提案は3つ。1つ目は、今ここで。まぁ、チェギョンも俺もイヤだって言ったから、これは無いけど」
秘め事と言われるぐらいだから、やっぱり誰かが聞き耳を立てているなんてイヤだ。
「2つ目は、改めて日時を設定する。ただし、今よりは多少離れて控えるように交渉はするつもりだ」
「完全にいなくなるって言うのは、無理よね?」
「無理だろうな。もちろん、それも交渉はしてみるけど、期待しない方がいいと思う」
チェギョン大事な皇帝や皇后なら、あるいはやりかねないけれども。
その一方で伝統を大事にする人たちだから、チェギョンに恥ずかしい思いはさせたくないけれどもと、妥協案を提示して来る気がする。
「3つ目は、2つ目と同じように改めて日時を設定する。ただし、その前にこっそり俺たちだけでその時を迎えてしまう」
「え?」
「多分、妥協案で手を打たなきゃいけなくなるから、その前に誰もいないところで、ふたりだけで大切にその時を迎えたい」
「それって、大丈夫なの?」
「何が?」
「その・・・」
「昔のヨーロッパの王侯貴族だったら、花嫁が処女であったことを示すためにシーツを掲げて証明する、なんてやったらしいけど、そう言うことはしないから。だから、大丈夫だろ」
「でも、皇族は嘘をついちゃいけないんでしょ?」
「必要な嘘って、あると思うよ」
「・・・」
「チェギョンはどうしたい?」
「・・・3つ目」
「わかった。じゃあ、今日はこのまま休むとしようか」
「え?」
用意されている自分の部屋へ戻るのかと思ったチェギョンは、シンの言葉に驚いたように声を上げた。
「ベッドでゆっくり休ませてやりたいとは思うけど。同牢の礼が略式で行われる前提で、東宮殿の改修がされてるんだ。つまり、寝室は別。いくら何もしないからって、結婚初日から別に寝るのはイヤだ。チェギョンが俺と結婚してくれたって実感したいから、一緒に寝よ。何もしないって、約束するから」
例えそれが苦行だったとしても、チェギョンを手放せない。
「本当に、何もしない?」
「キスぐらいはするかもしれないけど」
その言葉に、チェギョンが何とも表現し難い上目遣いでシンを見て来た。
(お願いだから、俺の決意を揺るがすような無意識に誘う視線はやめてくれ)